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代表者について

About the CEO

代表者の生い立ちと
不動産個人投資家への道

01家庭環境と父の病の影響

最初に私の人生に影響を与えたのは、私が5~6才位の頃、父が当時46~47歳の時に虚血症とかいう血の巡りが悪くなる病気を発症し倒れて数年間寝たきりになってしまいました。

母が頼んで父には仕事を辞めて貰い、母が一人で家庭を切り盛りしていました。働けなくなった父は生活の足しするため、退職金をつぎ込み、友人の勧めで経営は友人に任せてラーメン屋を始めました。

しかし、経営は上手くいかず友人にも裏切られラーメン屋は一年で潰れてしまいました。子供の頃だった私は、なんで辞めちゃうのヤダヤダ!と言った覚えがありますが、両親は何も答えませんでした。

当時を振り返ると、事業の失敗により収入が無くなっただけでなく、退職金や貯金も無くなって、父は働けず、母が支え続ける状況の家庭環境はとても苦しかったと思います。

その後2~3年静養し、父も特許関係の仕事で部長職として週に2日だけ勤めに出るようになり新たな会社で社会復帰を果たしましたが、以前のような生活レベルとは違う世界だったとは思います。

今思えば、父が働き方を変え幼少期に一緒に過ごす時間があったことは私個人としては幸せなことだったかも知れません。

40歳過ぎてからの子供でしたが、父が亡くなるまで30年間一緒にいる時間を貰えました。

02兄の死とその影響

次に大きな影響があったのは、私が小学校3年生の夏、兄が中学校3年生の時、何かボーイスカウト的な活動で兄が友人達とハワイに行くことになりました。

当時は一生に一度の海外旅行の時代なので、金銭的にも大変だったと思いますが、両親は兄に外国での活動を経験させようと応援して送り出したと思います。

1週間の活動を終えて、当時大阪の空港に無事に着いて帰ってきたと兄から電話がありました。

しかし東京に向かう新幹線の中で突如倒れて、兄は帰らぬ人になってしまいました。

家族全員にとって人生をどん底に落とす出来事でした。

今考えると、エコノミークラス症候群のような状況だったのかと思いますが、当時はただ心不全とだけ伝えられました。

私の人生もこの頃から暗転して苦しい学生時代を送りました。

気づくと強気の性格も臆病になりだし、病弱で身体も極端に小さく、勉強もやる気が起きず、友人関係も上手く出来ない、
小学校高学年からは酷いいじめられっ子になり、中学校卒業まで色々なことがありましたが、日常的に激しい暴力や暴言を受け続ける日々を送りました。

対格差が無くなっていじめからは卒業したものの高校時代、大学時代もトラブルばかりでした。

社会人になってからも理不尽だと感じると直ぐに反抗してしまう性格が災いし苦難の人生だったと思います。

長年「どうして皆に嫌われる僕が生きて、皆に好かれる兄が亡くなったのか」悩み続ける人生でしたが、30代も過ぎて社会人として色々な活動を通していくうちに「貴方に出会えて良かった」と言ってもらえるようになり、それが嬉しくて、今では自分の生きる意味を理解出来るようになり悩まなくなりました。

03税理士を目指すきっかけ

20歳の時、翌年亡くなってしまいましたが税理士をしていた叔父の勧めで簿記の勉強を始めました。

いつか経営者になりたいと考えていた私にとってお金の勉強は楽しくもありました。

私は二浪して夜学で法政大学の学生になりましたが、学校はほどほどに様々な仕事を経験しました。

特に自分にとって初めて独立して仕事することになった竹竿屋と、他にも完全歩合制の営業仕事をしていました。当時は何としてもお金を稼いで成功者になりたいと無理をしていました。

しかし22歳の時、無理が祟ったのか仕事や人間関係の様々なストレスから、ある日突然大量の下血をして倒れてしまいました。潰瘍性大腸炎という難病を発症し闘病生活で人生は一変しました。

04難病との闘いとその教訓

この難病は苦しい時期とそうでもない時期を数か月おきに繰り返すのですが、大丈夫な時は仕事も出来ましたが、苦しい時期になると、朝から晩まで大腸から出血が止まらず、貧血と激しい痛みと便意に苦しみました。

満足に動くことも出来ず、現代医学では治せませんと宣告されている状況では、社会人になれる気も全くせず、人生に絶望するような状況でした。

私が幸運だったのは、両親がとても前向きで「必ず治る」「必ず治してやる」と言い続けてくれていて、東洋医学やありとあらゆる治療方法を探してくれたので、希望を失わなかったことだと思います。

20代半ばに3~4年の闘病生活を送りましたが、その間に専門学校で税理士試験にチャレンジする機会にもなりました。

病気になった最大の原因は、当時の仕事はお金だけが正義で、お客様の為や世の中の為になる仕事
という世界観ではなく、自分の性格には合わなかったのだと思います。

やっぱり「人の為と自分の為が一致する仕事がしたい」と心底感じました。その時、税理士ならそれが出来るかもと思ったのが目指した理由です。

05不動産の重要性

ここまで不動産の話は出てませんが、実は私の税理士試験受験の為の専門学校の学費は、母が一つ持っていたワンルームマンションの収入を学費にしていいと言ってくれていたから出来た話なのです。

私が幼い頃、母の友人が破産することになり、母は友人を助けたいと思い、友人家族を住まわせる為に20年ローンを組んでワンルームマンションを買っていたのです。

しかし初歩的な問題ですが、その物件がペット不可で猫が飼えない物件だったので、その友人の子供が飼い猫と離れたくないという理由で、そこには住まないことになりました。

結果他の人に賃貸で貸すことになったのですが、ローンの返済が毎月8万円位、賃貸収入が6~7万円位毎月1~2万円マイナス持ち出しの投資だったと記憶しています。

僕が二十代半ばになって20年の返済が終わり、管理費1万円位を差し引いた毎月6万円位の手残り額がありました。

母はそのお金を私の勉強代に回していいと言ってくれました。

病気で満足に働けない中で学費を出して貰え、この時から不動産収入の有難さを痛感することになりました。

06株式投資とその教訓

当時、1990年代後半はITバブルの頃でした。私の周りでも株で成功している方々がいて、私も株の勉強もはじめていました。

ある成功している投資家の方に会社四季報を一冊読破したら投資を教えてくれると言われて、四季報を読破しました。

しかし、私がいよいよ株式投資を始めようとした時、私に株のことを教えてくれていた方が、急に全てを売却して株から手を引くと言い出しました。仕方なく自分だけで株式投資を始めました。

私も仕事等で蓄えたお金を元手に株式投資を始めましたが、ちょうどその頃をピークにITバルブは崩壊をはじめ、日経平均株価も2万円超から8千円未満まで下落することとなりました。

私は専門学校に通い受験勉強をしながら、株式市場の下落基調の中で、数年間株式投資で奮闘しました。結果として・・・勉強をかなりさせて頂き、勉強代もお支払い致しました。(;^_^A

07商品先物取引の挑戦

私は数年間の株式投資以外に、商品先物取引にも約一年間挑戦してみました。

少しの値動きでも先物取引は大きな金額が動くので、精神的な負担が凄く、試験勉強との両立など無理だと感じました。

金への投資は上がると確信して始めました。当時は金はグラム890円位で、確かにその後も上がり続けました。

しかし証券会社の営業マンに付き合って、コーヒー豆、トウモロコシ、大豆など、様々な取引を経験し、見事に儲けた分を全て失って、最終損益はマイナス8万円で辞めました。

これも良い勉強になりましたが、個人的には二度と先物取引にはチャレンジしないと心に決めています

08投資の教訓

世の中的には数百万円単位などとても少額なのですが、20代の私にとっては大金でした。少額でも株式投資や先物投資を納得いくまでチャレンジして経験できたことは良かったと思います。

私の株や先物の個人的な感想を言えば、市場があるものは勉強をいくらしても全く自分のコントロール下にない世界であり、「儲けるのは地道で、損するのは一瞬」な世界だと感じました。

株式投資等の中で学んだこと感じたことは山のようにあるのですが、不動産の話からそれてしまうので、このくらいにしておきます。

株式投資と不動産投資は同じ投資でも本質的に全く違うものとだけは言えます。

09初めての税理士事務所

21世紀に入り、私の身体に関しては様々な要因がありので説明は出来ませんが、希望を持ち続けたおかげもあり、少しずつ病気と上手く付き合えるようになってきました。

当時は就職難の時代ではありましたが、27歳の時に東京大田区は蒲田にある税理士事務所に就職して働く機会を得ることが出来ました。

職場環境は今風に言えば酷いブラックな事務所で、社会保険も入れてもらえないのに手取り19万円程度で終電頃まで帰れず様々な面で過酷な労働環境ではありましたが一日も休まず働きました。

石の上にも三年、修行だと思って頑張りました。ここでの経験はその後の人生に特に影響したと思います。

10中小企業と不動産収入

当時は大手企業の下請け切りが問題になっている時代でした。

蒲田は中小零細の町工場が並ぶ製造業の町で、顧問先の7割が町工場でしたが顧問先が毎月のように倒産していく状況でした。

仕事では何とか銀行に融資してもらえる申告書になるように考えるのですが、下請け切りにあうと売上が一発で半分以下になってしまったりするので、苦しいお客様を横目に担当者として無力を感じる日々でした。

地域で6千社あった町工場が10年で3千社に減ったと聞いています。

そんなある時、同じように素晴らしい技術を持ち同じように苦しい状況ながらも、倒産してしまう会社と倒産しない会社があることに気付きました。

税理士事務所の一担当者として、その違いは何かを考えた時に分かったことは、個人か法人かは別として、本業以外に何らか第二第三の収入源を持っていた個人や会社が技術や生活を守ることが出来たということです。

その代表格が不動産収入でした。売上が激減し大幅なキャッシュアウトを起こして多くの企業が倒産・廃業に追い込まれる中で、不動産収入は安定して得られ、個人法人のデフォルトを防いでいました。

私自身、親が不動産収入を私の授業料に回してくれたおかげで勉強することも出来ていましたので、不動産収入のおかげで本業がだめでも会社や生活を守れるのだと強く認識しました。

11不動産オーナーへの道

その頃から私もいつか不動産オーナーになるんだと心に決めていました。個人のお客様の不動産所得の確定申告書を見る度に刺激を受けていました。

しかし、私のような安月給の個人サラリーマンが不動産投資をするという概念は当時はほぼ存在せず、まとまったお金のない自分がどうやったら不動産オーナーになれるのか全く分かりませんでした。

とにかく、唯一の自由時間である通勤電車の中と昼休みの間に、毎週ビジネス書を一冊買って読むことだけを繰り返し、それ以外にはペットボトル一本買うことも無くお金を一切使わず軍資金を貯めて20代後半を過ごしました。

成功者になる為に役立ちそうな本は色々な本を読みましたが、不動産オーナーになる為の本はなかなかありませんでした。

そんな頃に有名になった本がロバートキヨサキ氏の「金持ち父さん貧乏父さん」という本でした。シリーズは全て読み、考え方にはとても刺激を受けましたが、アメリカの法律と制度を利用して不動産オーナーになった方の話なので、日本で出来るイメージは持てませんでした。

そんなある時書店を回っていると、倉橋隆行氏の「アッと驚く不動産投資」という本を見つけました。著者は横浜で不動産業をされている方で、日本でも実際に不動産投資をすることが出来るんだ!と本当に驚かされました。

それから具体的にイメージ出来るようになり、ほんの少しづつですが投資家の本もその後出版されるようになり、当時は見つけては買って勉強していました。

金融機関にアポイントをとって話を聞いても回りましたが、当時はどこも一般的でなく、横浜銀行でも「31歳で不動産投資ですか?」「不動産投資は地主さんが相続対策とかでやるものです」と言われたのを記憶しています。

12不動産オーナーへの決意

不動産の勉強はしつつも、仕事も忙しく、税理士試験の勉強もしていて、忙しさを理由にしている部分もあったと思いますが、やろうやろうと思っていても一歩が踏み出せない感じで時間だけが過ぎていました。

そんな2003年、30歳になる直前に11年付き合った彼女と意を決して結婚しました。しかしこれまでは実家にいたのでどんなに安月給でも、ビジネス書以外自分には何一つ買わない暮らしの中で軍資金も貯めていられましたが、結婚生活を送ると、全く経済的に余裕のない現実に直面しました。

勤めて3年目、冬のボーナスをカットされ年収が300万円を切り年収298万円になったのを機に、翌年転職することを決意しました。

横浜市内の税理士事務所に転職して年収は400万円ベースにはなりましたが、決して余裕のある生活ではなく、またこちらも前にもまして当時は半端ない労働環境でしたので、四六時中仕事のストレスを抱え、病気も再発しだしてしいました。

13環境の変化

そんな必死な日々でしたが、2005年には息子が生まれ、そして直後に父が亡くなりました。

私をとりまく環境は責任も重くなって厳しさを増していきました。

そして不動産投資を実行に移す決意をしました。

投資家になってから5年間は、実行と勉強を繰り返し紆余曲折ありながらも拡大路線を進め、一定の成功を納めたと自負しています。

14不動産投資を始めた理由

私が不動産投資を始めた理由を簡単にまとめると:

・私自身が難病を抱えていつ働けなくなるか分からないこと。

・身内を亡くして自分以外頼る人がいないこと

・結婚して妻子が出来たこと。

・サラリーマン時代の労働環境が厳しかったこと。

・不動産収入が生活を助けるということを実感として知っていたこと。

・蒲田での税理士事務所勤務時代に不動産収入があった人が会社や生活を守ることが出来たということを見てきたこと。

・株式投資等はよほど大きな元手を持っていないと勝つことは難しいという現実を理解したこと。

・株式投資等は儲けるのは地道で、損するのは一瞬、儚い夢だと実感したこと。等

15成果と変化

不動産投資家として第二の収入を手に入れることに成功したことにより、私の人生の選択肢は広がりました。

家族を養っていけるだけの収入が出来たことによって、仕事を辞め、税理士資格取得の為に大学院に進学することも出来、専門学校もかようことも出来、そして結果として税理士資格も取得出来ました。

潰瘍性大腸炎という難病も幾度も再発しましたが、病気に合わせて勉強も仕事もすることが出来ました。そして脱サラしてから18年以上経った今でも家族の生活を支え続けることが出来きました。

不動産業者をやってみようという挑戦もすることが出来、そして震災をきっかけに事業では大失敗しましたが、それでも会社と生活を守ることも出来ました。

私は、不動産投資に挑戦したおかげで人生を守ることが出来、そして多くのチャンスを貰いました。そして借入金残高が1/3程度まで返済が進み、投資の出口が見えてきました。

現在は再度借り換えて個人から法人に所有物件を移し、事業や様々なことに再チャレンジしているので借入金残高は増えましたが、返済して空き担保が出来た分資金調達も出来るのが不動産の強みでもあります。

不動産投資は次世代まで続く長い戦いですし、投資でなくても不動産は一生の取引です。

私の経験が、不動産取引をしようと考える多くの方々のお役に立てたら幸いだと思っています。

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